「まもなく終点の明石駅です」

バスの運転手さんのアナウンスが車内に響いた。

読んでいた本にしおりを挟み、カバンの中にしまう。
替わって胸ポケットに入れておいたICカードを取り出し、バスを降りる心準備だ。

バスが駅に到着し、前の客から順に降りていく。
真ん中よりも少し後ろ寄りの2人掛けの椅子の奥側に陣取っていたぼくは、すぐには立ち上がれない。

少しずつバスの降り口へと進む人の流れが順調になり、ようやくぼくも立ち上がって通路へと出る。

前の人の足を踏まないように気を付けながらゆっくり進んでいた時に、2~3人前を歩く高校生の男の子の姿がふと目に付いた。

白いカッターシャツに黒のスラックスという、夏の制服姿。
どこがどうと上手く表現できないのだが、ちょっと制服をだらしなく着崩した感じの男の子だ。

まあこの年頃の男の子は大抵こんな感じだよなぁ、などと、どんな感じなのかよく分からないことを考えながら降り口に向かう。

高校生の男の子がICカードをバスの料金読み取り装置にタッチ。

その後、少し控えめな声で「あざっ~す」と運転手さんに礼を言ってバスを降り、少しはにかむようなそぶりを漂わせながら、JRの駅の方へと向かう人ごみの中に消えて行った。

ぼくは、なんだかとても清々しい心持になると同時に、高校生の男の子に対し“この年頃の男の子は・・・”などとステレオタイプなイメージを持った自分が恥ずかしくなった。

古代エジプトにも「最近の若い者は・・・」という言葉が

大人が、あるいは年寄りが若い者のことを嘆く「最近の若い者は・・・」という言葉は、古代エジプト時代の遺跡に刻まれた象形文字の中にもあるという話を聞いたことがある。

(高校の資料集や世界史の参考書などをひっくり返してみたが、そのようなエピソードを見つけることができなかったので正確なことは言えないが・・・)

紀元前4世紀頃にソクラテスやアリストテレスらとともに活躍した古代ギリシャの哲学者プラトンも、「最近の若い者は・・・」という言葉を残しているとのこと。

わが日本でも平安時代に清少納言が「最近の若者」のことを嘆いているらしい。

人格識見に優れた大人が未熟な若者の言動を嘆くのは、今も昔も変わらないということのようだ。

しかし、、、

「最近の若い者」の言動ってそんなに嘆かなければならないようなものなのだろうか?
「最近の若い者は・・・」と嘆く大人たちは、みんなそんなに人格識見に優れた人々なのだろうか?

ぼくにはむしろ、(自分も含めて)「最近の大人は・・・」、「最近の年寄りは・・・」と嘆かなければならないことの方が多いように感じるのだが・・・。

買い物した商品を「ありがとう」と言って受け取っていますか?

あなたはコンビニやスーパーなどで買い物をして、レジで店員さんから買った商品やお釣りを渡してもらうときに、「ありがとう」と礼を言っていますか?

店員さんから「ありがとうございました」と言ってもらうんじゃなくて、お客としてのあなたから店員さんに対して、です。

どうも資本主義経済の本質的な部分にかかわることなのか、お金を払う方が偉い(立場が上)というようなところ、ぼくに言わせると“勘違い”があるように思われてならない。

商品を売る方は礼を言うのに、お金を払う方は礼を言われて当たり前、お金を払って商品を買ってやったんだから当たり前、というような空気・風潮が一般的なように思う。

しかし、ちょっと考えてみればこれもおかしな話だ。

商品を買ってもらってお金を頂くのがありがたいことなら、お金を払って自分が欲しい、自分に必要な商品を売っていただくのもまた、ありがたいことだろう。

いくらお金を持っていても、欲しい商品がなければ、使うべき道がなければ、お金なんてただの紙切れだ。
(最近ならスマホ内のただの数字に過ぎないと言えるだろうか)

商品と引き換えにお金を頂いたことに「ありがとう」と言うのであれば、お金と引き換えに必要な商品を頂いた事に対しても「ありがとう」と返すのは当然ではないだろうか。

整形外科のリハビリテーションに通うお年寄りの話

ぼくの妻は近くの整形外科医院で、リハビリを行う理学療法士・作業療法士の助手の仕事(パート)をしている。

整形外科のリハビリだから、やってくるのはおばあちゃん・おじいちゃんがほとんどだ。

ほぼ毎日のように決まった顔がやってくるらしい。
当然、ほとんどの人と親しく話をするようになる。

そんな妻曰く、

「おばあちゃんはね、まあ、可愛いのよ。“可愛いおばあちゃん”って感じでね」

「可愛げがないのは“じいさん”や!やたら小理屈をこねるし、勤めてた頃は偉かったんかなんか知らんけど態度がでかいのよ!」

我が身を振り返って身がすくむ思いがしないでもないが、それにしても妻の言葉には、ぼく自身も納得できることが多々あると感じる。

バスを降りるときに運転手さんに「あざっ~す」とお礼を言う高校生はいるが、大人や年寄り(特に男性)で運転手さんにお礼を言ってからバスを降りる人にはあまりお目にかかったことがない。

スーパーのレジで店員さんに対して、尊大な態度であれこれと小理屈をこねて苦情を言っているのは、たいてい“じいさん”だと思うのは、ぼくの偏見だろうか。

若者への信頼をティッシュに託して

2022年7月7日付の神戸新聞に、関西学院大学西宮上ヶ原キャンパスの正門前で、参院選挙の投票を促す啓発ティッシュを配る元会社員の男性(77才)のことが載っていた。

彼は国政・地方選を問わず、10年ほど前から選挙の時には正門前でティッシュを配っているという。

啓発ティッシュは選挙管理委員会が作ったもの。
つまり何の政治色も無いものであるということだ。

若者に「投票へ行こう」とは呼び掛けても、誰に投票するかは自分で考えるべきことだ、というスタンスなのだそうだ。

彼は会社員時代に組合活動に熱心だった。
与党・政権に対しては批判的な立場の人間だ。

(はいはい、その気持ち、ぼくもよ~く分かります)

ロシアのウクライナ侵攻が後押しをし、「軍事力強化」、「憲法改正」と日本の世論が保守化に傾き、同時に若者の保守化も言われている。

神戸新聞の記者がティッシュを配る彼に、

「投票率が上がって若者がたくさん投票すると、あなたの思いとは逆の結果を招くことになるかもしれませんよ」

と声をかけた。

彼の答えは、

「若い人たちは賢い。自分たちが不幸になるような選択をするはずはないと思う」

という、若者へのゆるぎない信頼に満ちたものだった。

自らの身を顧みることもなく「最近の若い者は・・・」などと嘆いている暇があるならば、啓発ティッシュを手に大学の正門に立つ方がよほど生産的だと思う。