ひでさん、あなたのその症状はうつ病ですよ。
辛かったでしょう・・・。
ゴムってね、普通は引っ張ると伸びるし離すと縮むでしょ。
ゴムには柔軟な弾力性があるからです。
でもね。
ず~っと引っ張り続けられたゴムは弾力を無くし、伸び切ってしまって元に戻らくなってしまうんですよ。
今のあなたは伸び切ってしまったゴムと同じ状態。
無理に無理を重ねているうちに弾力が無くなって、元に戻らなくなってしまったんです。
そんな風になるまであなたはがんばったんですよ。
いや、がんばりすぎたんです。
うつ病はね、真面目でがんばりすぎる人がなる病気です。
本当に辛かったですねぇ。
このへんで少し休憩しましょうよ。
やっとこの苦しさを理解してくれる人に出会えた・・・
32才の5月、ゴールデンウィーク明け。
曰く言い難い不調に襲われたぼくは、ある精神科の個人医院を受診した。
診察室で先生に向かい合ったぼくは、言葉で表現することが難しい不調を途切れ途切れに説明した。
先生は目に優しい微笑みを浮かべ、時々小さくうなずきながら、ぼくのたどたどしい病状の説明を静かに聞いている。
会社の同僚や先輩・上司はもちろん、家族、妻にさえも理解してもらえない状態。
まさに藁にも縋る思いで訴え終えたぼくに、先生が諭すようにかけてくれたのが上の言葉だ。
「あぁ、やっと助かった・・・」
先生の言葉を聞いたときに、一番に最初に思ったことだった。
「やっとこの苦しさを理解してくれる人に出会えた・・・」
先生の優しいまなざしと言葉に、それまでガチガチに凝り固まっていた肩の力がほんの少し緩み、体中から安堵のため息が漏れ出たように感じたのを覚えている。
あっさりと会社を休職することに
先生はその場でぼくの家に電話をし、妻に病気のことを説明した。
「奥さん、ご主人はうつ病です。がんばりすぎて心が疲れてしまってるんですよ。でもね、心配しなくていいですよ。必ず治ります。うつ病は必ず治る病気ですから」
先生はさりげなく妻の心のケアにも配慮してくれていた。
次の電話は会社に。
「課長さん、ひでさんはうつ病で少し休養が必要です。診断書を書きますので休職の手続きをしてあげてください」
先生が言うように、うつ病はがんばる人、がんばりすぎる人がかかりやすい病気。
そんな人が会社に対して「少し休ませてください」などとはなかなか言い出せないということを見越した上で、先生は会社の上司にも電話をしてくれたんだと思う。
『自分でも理解できない不調のせいで会社を休むわけにはいかない・・・』
出勤してもほとんど仕事もできないような状態だったのに、ただただそんな責任感だけで出社していた会社も、その日からあっさりと休職することになった。
うつ病発症の要因~7年間の分会長の重責
ぼくは32歳の4月に転勤になるまで、前の営業所にいた7年間、労働組合の分会長をやっていた。
一口に労働組合と言ってもその実態は様々だ。
当局となぁなぁになっているいわゆる御用組合もあるが、ぼくが所属する労働組合は当局との対決姿勢を鮮明にした、いわゆる“闘う労働組合”だった。
(実態はともかく、表向きの顔はそうだった)
組織の末端の長とは言え、ぼくは分会長としての責任を背負い、7年間、分会員の利益を守るために当局との交渉事の矢面に立ってきた。
“闘う労働組合”としての当局との交渉事は、決して楽なものではなかった。
そして、ぼくは分会長であると同時に会社員。
(会社員であると同時に分会長だった、と言ったほうが正確だろうか?)
分会長としての責任も果たさなければいけないが、会社員としての仕事もサボるわけにはいかない。
会社員としての仕事と労働組合の分会長としての重責を掛け持ちし、無理に無理を重ねた7年間。
この間にぼくの心身は“伸び切ったゴム”になってしまったのだ。
労働組合の“手のひら返し”
結局この日から会社を退職するまでの間、ぼくの病気は寛解と悪化を繰り返し、同時に休職と復職を繰り返すことになった。
ぼくがそんな状態になった原因、うつ病になった一因には、労働組合の分会長としての重責があったことは間違いない。
労働組合の役割は、かんたんに言えば社会的弱者を救うことだ。
大きな会社組織に対して弱い立場にある分会員の権利を守り、向上させるために働くことが労働組合の、そして分会長の役割だと信じて、ぼくは7年間がんばった。
しかし、病気になった=一般的な一労働者以上に弱者になったぼくに対し、“我が労働組合”は何の手も差し伸べようとはしなかった。
それどころか、労働組合のぼくに対する姿勢は、ほとんど“無視”を決め込むというに近いものだった。
病気になって組合活動ができなくなったような“元分会長”になど何の用もない。
そういう反応だった。
7年間、好き好んで分会長という重責を背負ってきたわけではない。
もうしんどいから誰かに替わってほしいと、何度も訴えてきた。
そのたびに上部団体である支部や本部の役員は、
「分会長ができるのはひでさんしかいない」
「ひでさんが辞めたら分会は回らなくなる」
と言ってぼくの訴えを取り合ってはくれなかった。
それがうつ病などという何やら怪しげな病気になって会社に行けなくなり、もちろん労働組合の活動もできないとなった途端の“手のひら返し”だった。
組織にとってのぼくは所詮“歯車のひとつ”
しかし、ここで労働組合に対する愚痴を言いたいのではない。
(いや、本当は言いたいが・・・)
「ひでさんしかいない」
「ひでさんが辞めたら困る」
そんな風に持ち上げられてやっていた分会長だが、ぼくが転勤した後はすぐに後任の人が分会長の役職に就き、組合も分会も全く何事もなかったかのように機能している。
会社の仕事にしても同じだ。
「こんなことで休むわけにはいかない」
「ぼくが休んだら同僚や先輩、上司に迷惑をかける」
そう考えて、上がらない頭を無理やり持ち上げ、這うようにして出社していた会社は、ぼくが休職届を出した翌日からも普通に動いている。
会社や労働組合という大きな組織にとってのぼくは、良くも悪くも“歯車のひとつ”に過ぎなかったということだ。
一個人にとって、大きな組織から割り当てられた役割というのは、その程度のものだということなのだ。
“歯車”であることを受け入れると楽になった
所詮、自分は組織にとってただの歯車のひとつに過ぎない。
この事実を受け入れるのには、当初、やはり抵抗があった。
しかし病気の悪化と寛解、休職と復職を繰り返す中で、ぼくの意識にも変化が生じてきた。
会社にとってのぼくの存在は、「会社に迷惑をかけてはいけない」などとぼくが悩み苦しんでいるほど大きなものではない。
会社がその気になれば、ぼくの代わりなどいくらでも用意できるのだ。
だったらぼくも思い悩むことはない。
しんどい時は休めばいい。
我慢などする必要はない。
所詮は小さな歯車のひとつだ。
歯車のひとつに過ぎないぼくが、大きな組織のために何としてもがんばらなければ!などと力む必要などないのだ。
そう思えるようになってきた。
そう思えることで心が楽になってきた。
“他に代え難い存在”としてぼくを受け入れてくれるのは・・・
会社や労働組合といった大きな組織は、ぼくのことを“歯車のひとつ”としてしか見ていない。
では“歯車のひとつ”としてではなく、“他に代え難い存在”としてのぼく、ひでという人間を受け入れてくれるものはないのか?
そんな疑問を持って身近なところに視線を移してみた時に、ぼくにとって本当に大切なものが見えてきた。
それは、無償の愛を注いでぼくを育ててくれ、今、うつ病を患ったぼくを、いつまでも小さい子どもであるかのように心配してくれる両親の存在。
病気になったぼくの代わりに、「わたしが長距離トラックの運ちゃんになってでも生活費を稼ぐ」と、ぼくと家庭を懸命に支えようとしてくれる妻の存在。
病気になって父親らしいことを何一つしてやれないにもかかわらず、何の疑いもなくぼくを信じ、親としてなついてくれる子どもたちの存在だった。
ぼくをぼくとして、“他に代え難い存在”として受け入れてくれる両親や妻、そして子どもたちのためにこそ、生きていけばよい。
うつ病になり、大きな組織の冷淡さを感じ、家族の真実に触れてみて、ぼくはそんな風に考えられるようになった。
落ちこぼれ上等、時代おくれ上等!
そんなぼくの姿は、あるいは社会の“落ちこぼれ”、あるいは社会についていけない“時代おくれ”なヤツだと映るかもしれない。
しかし、、、
“落ちこぼれ”、上等。
“時代おくれ”、なお上等。
ぼくにとって本当に大切なもの=家族とともに、ぼくは、ぼくらしく生きる。
それでいい、と思う。