「ひでさん、これ、我が家の畑で穫れた夏野菜なんですけど、良かったらいただいてくれませんか?」
上の、見るからに穫れたてピチピチ、はち切れんばかりに新鮮で瑞々しい夏野菜の写真を添えて、友人のTさんからそんなうれしいメールが届いた。
Tさんは先祖代々受け継いできた田畑で、兼業として野菜やコメを作っている。
キュウリにしろナスにしろ、夏野菜は我が家のみんなの大好物。
特に菜食主義の次男にとってはよだれが出そうな写真だったんだと思う。
「どうする?」
「もらいに行こ!」
ぼくの問いかけに次男は即答。
『そんなもん、聞かんでも当然やろ!』と言わんばかりの勢いの返事だった。
苦笑いを噛み殺しつつ、Tさんにメールをして落ち合う場所と時間を決める。
到着時間から逆算して家を出る時間を決め、次男を助手席に乗せてTさんとの待ち合わせ場所へと車を走らせた。
19才のある日、次男は菜食主義を宣言した
我が家の食の好みはバラバラだ。
ぼくと妻は好き嫌いはあるものの、食べられないものというのはあまりない。
長男は肉類が好物。
幼稚園の頃、食べられないイチゴを担任の先生に無理やり食べさせられて以来、イチゴは長男の天敵なんだそうだ。
今思い出しても、その担任の先生には殺意を抱くそうである。
次男は上に書いとおり菜食主義だ。
肉類は一切口にしない。
※と言っても「ベジタリアン」の方であって、「ヴィーガン」ではない。
しかし次男は肉類が嫌いだというわけでも、食べられないというわけでもない。
小さい頃は牛肉も豚肉も鶏肉も食べていた。
彼が肉類を口にしなくなったのは、19才になってすぐの3月。
そう、2011年3月11日。
あの東日本大震災があり、津波による原発事故が発生し、人々は放射能に汚染された故郷を追われ、置いて行かれた牛や豚が日に日に痩せ細り弱っていく姿を目にしてからだ。
「お母さん、ぼく、これからは肉は食べへんことにする」
東日本大震災から何日後だったかは覚えていないが、ある日次男は意を決したように、妻にそう宣言した。
阪神・淡路大震災を上回る戦後最悪の大災害
2011年3月11日 14時46分、東北地方太平洋沖で発生した地震は、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0、最大震度7という超巨大なものだった。
地震に伴い高さ10メートルを超える(最大遡上高は40.0メートル)、これも国内観測史上最大の大津波が東北沿岸部を襲い、甚大な被害をもたらした。
地震と津波による被害は、死者1万5,899人、行方不明者2,526人、震災関連死3,775人、住宅全半壊40万戸超とされる。
※2021年3月10日時点/日本大百科全書(ニッポニカ)参照
これは阪神・淡路大震災を上回るものであり、その阪神・淡路大震災で家が半壊になった経験を持つぼくにとっても他人ごとではなかった。
そして地震・津波の被害に輪をかけたのが、東京電力福島第一原子力発電所の放射性物質の放出事故。
放射能に汚染された町には避難指示が出され、住民は住み慣れた土地を離れざるを得なかった。
そんな中で町に取り残されたのが、上述した牛や豚などの家畜たちだった。
自ら命を絶った人たち、他県に避難を余儀なくされた人たち
福島第一原発事故により、野菜から食品衛生法の暫定基準値を超える放射性物質が検出された。
政府は原子力災害対策特別措置法に基づく措置として、福島県産の原乳及びホウレンソウ、ブロッコリー、キャベツなどの野菜の出荷停止を指示した。
その翌日。
「農業、継がせなかったらよかったな」
息子さんにそんな言葉を残して、64才の男性が自ら命を絶った。
18才から農業一筋に生きてきた方だった。
翌月。
「原発さえなければ。
こういう形になり、すいませんでした」
牛小屋の壁にチョークでこう書き残し、55才の酪農家の男性も自ら命を絶った。
※2022年6月22日 神戸新聞 朝刊参照
放射性物質によって汚染され、避難指示地域となった故郷から出ていくことを強制され、住み慣れた土地を離れ、他県に避難せざるを得ない人も何万人という単位にのぼった。
県外避難者は北海道から沖縄県まで全都道府県に及んでいる。
原発避難者集団訴訟 ~「国に責任はない」~ 最高裁判決
福島第一原発事故で故郷を追われ、全国に避難した人たち約3,660人が、国と東電の責任を問う4件の集団訴訟を起こした。
6月17日、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は、原発避難者集団訴訟初となる判断を示した。
最高裁の判決は、
「実際の津波は想定より規模が大きく、仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても事故は避けられなかった可能性が高い」
との理由で国の責任を否定したものだった。
かんたんに言えば、
「想定外の地震・津波だったから原発事故は仕方ないものだ。悪いのは自然災害。国に責任はない」
ということだ。
そもそも原発は「トイレ無きマンション」と言われるように、発電の過程で生み出される放射性廃棄物の処分方法がはっきりしないまま、見切り発車で開始された。
そしてその状況は現在に至るまで変わっていない。
いざ事が起こればどんな恐ろしいことになるかということは、アメリカのスリーマイル島事故や、旧ソ連のチェルノブイリ事故で分かっている。
そんな未来に禍根を残しかねない、また一つ間違えば原発周辺の広範囲に渡る地域がゴーストタウン化してしまう危険極まりないものを、災害列島と言われる日本で推進してきたのは国である。
原発は“国策”として推進されてきたのだ。
ところが、いざ事故が起これば、それを推進してきた国には責任は無いという。
想定外の災害が起こった時、国民に対し国が何の責任も取ってくれないというのであれば、今後さらなる「想定外の災害」がいつ起こっても不思議ではない日本において、我々はどのようにすれば心穏やかに暮らしていくことができると言うのだろうか。
さらに言えば、判決が「仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても」と述べているとおり、国は東電に対し、防潮堤の設置や原子炉建屋の浸水対策などの「必要な措置を講じる命令」を出していなかったのである。
そして一方の東電側は、そういう命令を出されないように国から逃げ回っていたのだ。
こんな無責任体制を「想定外の災害」だからの一言で「責任なし」としてしまってよいのか。
疑問は尽きないが、最高裁第2小法廷の4人の裁判官のうち、ひとり三浦守裁判官が反対意見を述べている。
三浦裁判官は、判決が判断を避けた「長期評価」の信頼性や津波の予見性といった争点についてもはっきりと認めたうえで、国は津波による被害を予見でき、必要な措置が講じられていれば事故を回避できた可能性が高かったと言及している。
とても国民の側を向いているとは思えない、失望落胆の極みと言えるこの最高裁判決の中にあって、唯一の光とも言える意見である。
株主代表者訴訟 ~13兆円の賠償命令~ 東京地裁判決
上記の最高裁判決から約1ヶ月後の7月14日。
東電の旧経営陣に対する株主代表者訴訟の判決が東京地裁で言い渡された。
朝倉佳秀裁判長は、
「7ヶ月かけて書いた判決です。最後までしっかり聞いてください」
と異例の前置きをしたうえで、約40分に渡って判決文を読み上げた。
「(東電は)有識者の意見のうち、都合の良い部分をいかに利用し、都合の悪い部分をいかに無視し、顕在化しないようにするかと腐心してきた」
「被告らの対応は東電内部では当たり前の行動だったかもしれないが、原子力事業者としては安全意識や責任感が、根本的に欠如していた」
と東電旧経営陣を厳しく糾弾。
最高裁が判断を避けた「長期評価」の信頼性については、
「相応の科学的信頼性があり、津波対策を義務づけられるものだった」
と評価し、同じく最高裁が判断を避けた「津波の予見性」については、
「過酷事故が起きる規模の津波を予見できた」
としている。
そのうえで、
「原発の主要建屋などに浸水対策工事を実施していれば、事故を避けられた可能性が十分にあった」
として、それを怠った東電旧経営陣に対し13兆3,210億円の支払いを命じたのだ。
訴訟指揮を執った朝倉裁判長は旧経営陣への尋問で、旧経営陣が津波対策の必要性をどのように認識していたのかと追及・質問攻めにしたという。
また「必要ない」と訴える旧経営陣側の反対を退けて、裁判官として事故後初の第1原発視察も行った。
最高裁判決における三浦裁判官の反対意見にしろ朝倉裁判長によるこの判決にしろ、そこからは国や旧経営陣の無責任さ・安全軽視の姿勢に対する“怒り”が感じられるようだ。
その“怒り”は、理不尽にも故郷を追われた原告の方たちの“怒り”そのものである。
愛する故郷を離れざるを得なかった人々の慟哭や怒り、そんな人間として当たり前の感情を理解できる裁判官がいる限り、いつかは原発訴訟に関わる方々にとって納得できる判決が下される日が来るだろうと信じたい。
次男の菜食主義はいつまで続くのか・・・
「いただいた夏野菜、こんな風に料理しました。ありがとうございました」
ぼくはTさんからいただいた夏野菜を料理した写真を添付して、Tさんにメールを送った。
※「料理した」のは次男ですが…。
ちなみに写真上から時計回りに、
- たたきやみつきキュウリ
- ナスの素焼き
- オクラとつるむらさきのポン酢の和え物
である。
Tさんからは、
「こちらこそありがとうございます!」
という返事が来た。
生産者にとって、自分が作ったもので喜んでもらえるということは、結局は自分の喜びとして返ってくるもののようだ。
数日後、Tさんから、
「今度はゴーヤはいかがですか?」
とのメールが来た。
ゴーヤは次男の大好物。
これまた一も二もなくいただきにあがった。
ぼくも料理の写真を送り返した。
これは「ゴーヤのおひたし」である。
たくさんのゴーヤをいただいたので、別の日には「ゴーヤの天ぷら」を作った。
※「作った」のは妻ですが…。
Tさんからいただいた夏野菜を美味しくいただきながら、ふと、
『次男はこの先ずっと菜食主義を貫くつもりなのだろうか?』
などという考えが頭をよぎった。
いつの日か、岩手、宮城、福島をはじめとする被災地で、また畜産や酪農が再開され、安心・安全な食肉、乳製品等として食卓に並ぶ日がきっと来るだろう。
かつて原発事故があった土地で元気に飼われている牛や豚の姿を見た時、次男はまた肉を食べても良いと思えるようになるのだろうか?
多分、頑固な彼は一生菜食主義を貫くのだろうと思う。
それもまた良いだろう。
大切なのは被災地の復興だ。
国と東電が責任を認め、全国に散り散りになった人たちが故郷に戻って来られる日が一日も早く訪れんことを。
そんなことを願いつつ、美味しそうにゴーヤをパクつく次男の顔を見ながら、ぼくもTさんからいただいた夏野菜をありがたくいただいた。