ストレスチェックシート

「ひでは、もうええ加減、病気を治さんとアカン」

うつ病を発症して数年目のこと。
普段から顔を合わせているごく近しい親族の男性が、なかなか病状が好転しないぼくに対して投げかけた言葉だ。

その言葉は言外に―いや、直接的にと言えるかも知れない―「治そうという気になれば治すことができるのに、お前はいつまで経ってもそうしようとしない」という、ぼくに対する非難を含んでいた。

そしてその親族の男性が「治そうという気になれば治すことができる」と考える根拠は、おそらくぼくの病気(うつ病)が「こころの病気」と呼ばれるものだからだ。

「こころの病気」という呼び方からは、「こころ」の持ち方次第で何とでもなる病気だろうという誤解が生まれやすい。

治そうと「こころ掛ければ」いつでも治すことができるはず。
それなのにお前の病気がいつまでも良くならないのは、お前にそういうこころ掛けがないからだ。

さらに突っ込んで言うならば、「病気」を理由に働くこともせず、そういう状況にいつまでも「甘えて」いるからだ。

言外に、あるいは直接的に、ぼくに対してそのような非難を投げつけたのだと思う。

「治そうという気になれば治すことができる」ような簡単な病気なら、誰が好きこのんでこんな苦しい思いを何年もしているものか。

親族の男性のぼくの病気(うつ病)に対するあまりの無理解さ・・・。

悔しい!
情けない!

でも誰にもどこにも訴えることもできない。
その日は1日、頭を抱え、胸を掻きむしり、地団駄を踏み、身悶えしながら過ごした。

それから1ヶ月間は、親族の男性に対する怒りが、超(スーパー)サイヤ人の逆立った髪のように心の中で嵐となって燃え盛った。

時が経ち、あれからすでに20年が過ぎようかという今になっても、こうして記事にして書き記そうかと思うほど、あの時の悔しさ・情けなさ・怒りはずっと心の中でくすぶり続けている。

「体の病気」を精神論で治せと言う人間はいないが・・・

癌の人に対して、「あんた、もうええ加減、癌を治さなあかんで」と言う人はいないだろう。

癌細胞はこころ掛けひとつで消失するものではない、ということはみんな知っている。
また癌が治らないのはこころに甘えがあるからだなんて誰も思わないだろう。

脳梗塞で起き上がれなくなった人に、「根性で立たんかい!」などと言うバカ者はいないと思う。
脳梗塞の後遺症で半身不随になった人に、「甘えているから立ち上がれないんや!」などと言うバカ者もまたいないだろう。

心臓病の人に、肝臓病の人に、腎臓病の人に、、、。
すべて同じことが言えると思う。

ところが事がいざ「こころの病気」となると、こういう「誰もそんなことは言わないだろう」と思われる無茶苦茶な物言いがまかり通る。

それは上でも書いたが「こころの病気」という呼び方に一因があるとぼくは思う。

  • 「こころの病気」なんだから、こころの持ち方次第で何とでもなる。
  • 「こころの病気」になるのは、こころ(精神力)が弱い人間だ。
  • 「こころの病気」が治らないのは、甘えているからに他ならない。

うつ病で休職していた時、「うつ病っていうのは、はっきり言って“甘え”やで!」とぼくに向かって言い放った上司もいた。

あの頃と比べると芸能人などがうつ病や適応障害などをカミングアウトすることも増え、かなり「こころの病気」に対する理解も進んだと思う。

しかし少なくともぼくが休職していた当時のうつ病、「こころの病気」に対する理解はそのようなものだったし、理解が進んだとは言え「こころの病気」に対する偏見・誤解は、現在でもまだまだ多いのは間違いない。

「こころの病気」ではなく「脳(体)の病気」と呼ぶべき

最新の研究によると、うつ病は脳内のセロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質(脳内ホルモン)の調節機能がうまく働かなくなっていることが、その原因であるということが分かってきている(らしい)。

つまり(医学的に正確なことはぼくにはよく分からないが)、うつ病というのは「こころの病気」などというどこか曖昧模糊としたものなどではなく、「脳の機能障害」=「脳(体)の病気」なのだ。

うつ病は他の胃や腸、心臓、肝臓といった臓器の疾患と同じように脳という臓器の疾患であって、こころに問題がある人が罹患する特別・特殊な病気でもなければ、決して根性がなかったり、甘えていたりするから治らない病気などというものでもないということだ。

そうであるならば「こころの病気」ではなく、はっきりと「脳の機能障害」と呼べば良いのではないか。
また「うつ病」という病名も「脳内神経伝達物質異常」とでも改めれば良いのではないか。

「脳の機能障害」という病気のものに、「根性で脳の機能を治さんかい!」と言う人間はいないだろう。
「こころ掛けが悪いから脳の機能が治らんのや!」と言うバカ物もいないだろう。

「こころの風邪」という呼び方による誤解も大きい

「こころの病気」という呼び方以外に、うつ病は「こころの風邪」と呼ばれることもある。

これは誰もがかかる「風邪」と同様に、うつ病もまた誰もが罹患する可能性がある病気なんだということを分かりやすく例えた言葉だ。

こころに問題がある特別な人がなる特殊な病気ではなく、誰でもがかかる恐れのあるごく一般的な病気なんだということを啓発するための言い方である、ということはよく分かっている。

(「こころの病気」という呼び方も、「精神病」という何か近寄りがたさのある呼び方に対し、一般的に受け入れられやすい表現として生まれたものなんだろうとは思う)

しかし「こころの風邪」という呼び方によって生まれる誤解もまた大きいのではないだろうか。

風邪にかかったと言って大騒ぎする人はあまりいない。
市販の風邪薬でも飲んで、一日、二日、静養していればそのうち自然に治る病気だ。

風邪という病気に対する一般的な認識はそんなものではないだろうか。

であるならば、「こころの風邪」であるうつ病もまた、ちょっと静養していればそのうち治るようなものなんだろう。
風邪と同じで大騒ぎするような病気ではないんだろう。

「こころの風邪」という言い方からは、うつ病に対するそういう見方が生まれても仕方がないと思う。

しかし実際のうつ病の症状はなかなかに深刻なものが多く、ちょっと静養すれば治るようなものではない。

うつ病の症状は体にも現れる深刻なものである

うつ病の代表的な症状はその名称からも分かるとおり、気分が鬱ぎ込むというものだ。

しかしこの「気分が鬱ぐ」というのも、例えば失恋に伴うこころの痛み、仕事上のミスによる落ち込み、などといったものとは比較にならないものである。

底なし沼に足を取られ、出口のないトンネルの中で前にも後ろにも進むことができず、自分の未来がまったく見えない暗闇の中で、不安と恐怖に苛まれながら、ただただ身を縮めて時間が過ぎるのを待つだけの毎日。

そんな状態がずっと続くのだ。

「不安と恐怖」のために外出などできない。
時には起き上がることもできず、布団の中で震えていることしかできなくなる。

不安で不安で、怖くて怖くて、仕方がない。

何が、ということではない。
身の回りのすべてが、世界中の何もかもが不安と恐怖の対象なのだ。

うつ病の「気分が鬱ぐ」というのは、そういうレベルのものだ。
そしてそういう「気分」の障害から、上に書いたように「起き上がれなくなる」という体の症状も出てくる。

というか、うつ病の症状の多くは体の症状として現れるものが多い。
不眠、食欲不振、頭が重い、肩が凝る、便秘、性欲の減退、思考停止等々。

決して気分が鬱々とする、という程度の病気ではないのだ。

そしてうつ病で何よりも怖いのが「希死念慮」。
この苦しみから逃れたい、早く楽になりたい、いっそ死んでしまえば今の状況から抜け出すことができる・・・。

そういう思いから自死を選択してしまううつ病患者は多い。

ぼくの身近な知り合いにも、うつ病を患い、病気の苦しさと周囲の無理解の中で、マンションの屋上から飛び降りて亡くなった人が2人いる。

死にはしなかったが、ぼくも”未遂”経験者だ。

「こころの病気」への無理解に苦しんだものからの提案

うつ病というのは「こころの病気」だとか「こころの風邪」だとかいう言葉から受ける印象とは程遠い、こころと体の両面に苦しく重篤な病状を呈する病気だ。

その苦しみは、そこから逃れたいがために、時には自ら命を断ってしまうほど深刻なものなのである。

上にも少し書いたが「こころの病気」、「こころの風邪」という呼び方は、精神病というものへの理解を進めるために、一般的に受け入れられやすい表現として生まれたものだろうということは理解している。

そのことは重々承知した上で、それでもぼくはあえて「こころの病気」、「こころの風邪」という呼び方は止めてほしいと思う。

「こころの病気」は「脳(体)の病気」と、うつ病は「脳内神経伝達物質異常」とでも呼ぶべきだと提案したい。

そうすることで「うつ病」は、「こころ」に問題がある人がなる病気なんかではないということ、そして「こころ掛け」次第で治る病気などではないということが伝わり易いのではないだろうか。

というか、「脳(体)の病気」、「脳内神経伝達物質異常」などという病名を見れば、そういう事を考えること自体がなくなるだろうと思う。

うつ病への無理解に苦しんだ一患者としての提案である。