スタート地点

こんな夜中に
お前のテレフォン・コール

朝がくるまで 二人で居てなんて

あれ程までに
モーションかけても
ダメだったお前が

What’s the matter,Baby
on my heart

What’s the matter,Baby

女ってやつが
またひとつ 解からなくなってきた
I don’t understand


真夜中のテレフォン・コール/作詞:トシ・スミカワ 作曲:柳ジョージ

(文中敬称略)

スネアの高速連打で始まる柳ジョージの「真夜中のテレフォン・コール」。
8ビートのリズムについつい体が動き出してしまうご機嫌な曲だ。

1984年に日産 SILVIAのCMに使われたCMソングらしい。

“らしい”というのは、1984年当時、ぼくはテレビも電話もない安アパートに住んでいたので、そんなCMを見たことがないからだ。

高熱が出て起き上がるのもままならないという時、会社に休みたい旨の連絡をするために、家の外にある公衆電話までフラフラの頭と体を引きずって歩いていかなければならなかった。

今や電話は一家に一台どころか一人に一台の時代になり、テレビもリビングと寝室といったように、一家に複数台あるのが普通になっているのではないだろうか。

さらには1984年当時にはまだ面影すらなかった、パソコンなどという高価なおもちゃも一人に一台の時代だ。

テレビも電話もないボロアパートでの一人暮らし。
あなたはそんな生活、想像できますか?

思い返してみると、あの頃はよ~あんな暮らしをしていたもんだ、などと我ながら感心してしまう。

閑話休題・・・。

真夜中のテレフォン・コール~女は不可解な生き物

柳ジョージの「真夜中のテレフォン・コール」は、ミステリアスな女心に振り回される男の気持ちを歌ったものだ。



いくら声をかけても振り向いてくれなかった女が、真夜中に突然電話をかけてくる。

「朝がくるまで二人で居て」

一体どうなってるんだ?

ついさっきまで俺に抱きついてた女が突然わめきだした。

何を言ってもどんなに慰めてもダメ。

一体どうしろというんだ?

俺の腕の中で眠ってしまった女が、夢の中で俺のことを抱き寄せた。

そして俺じゃない男の名前をつぶやいた。

女なんてさっぱり解からないぜ・・・



「真夜中のテレフォン・コール」はこんな女心の不可解さを、軽快な8ビートに乗せて歌い飛ばした柳ジョージらしい大人の曲だ。

女たちのジハード~5人のOLの生きざまを描いた女性賛歌

篠田節子著「女たちのジハード」は1997年に刊行された。
「真夜中のテレフォンコール」がCMソングに使われてから13年後、“バブル崩壊”から6年後に書かれた小説だ。

1997年上半期・第117回直木賞を受賞。
ちなみに同時受賞は浅田次郎の「鉄道員」である。

「女たちのジハード」は中堅保険会社に勤めるリサ、紀子、みどり、康子、沙織の5人のOLの生き様を、13の短編物語として描いた連作長編小説だ。

社会はバブル崩壊後の不景気真っ只中。
男性社員さえいつリストラされるか分からない中で、女性社員に求められるのは“職場の花”としての役割に過ぎない。

そして“結婚して円満退社”というのが彼女たちに用意されたレールだ。

5人のOLも、より素敵な男性とより良い条件で結婚するために、あの手この手の戦略・戦術を繰り出す。

しかし現実はそううまくはいかず、最高の条件だと思った男性の本当の姿に愛想を尽かしたり、あるいは結婚しても離婚に至ったり・・・。

そんなことを繰り返す中で彼女たちは“良い条件の結婚”にはこだわらない愛を見つけたり、結婚だけではない自分の本当に進むべき道を見つけていく。

文庫本で500ページを超える長編だが、作者の言いたいことは物語ラストの数行に凝縮されているように思う。

ごく普通の男、一般名詞としての男などと言うものが存在しないのと同様、ごく普通の結婚などと言うものもありえないのだ。

世の中に「普通のOL」などという人種はいないし、「普通の人生」もない。
いくつもの結節点で一つ一つ判断を迫られながら、結局、たった一つの自分の人生を選び取る。

5人のOLはそれぞれの人生の結節点で判断を迫られ、そしてたった一つの自分の人生を選び取っていった。

女たちのジハードはそんな女性たちの生き様を描き、その門出を祝う女性賛歌なのだ。

女心の機微もしくは権棒術数に恐怖する

女性賛歌として、「女たちのジハード」は世の女性たちを大いに勇気づけ鼓舞する物語だと思う。

と同時に、良い男を見つけ、条件の良い結婚をするための“権棒術数”とも言える女たちの戦略・戦術、策略は、世の男性たちを震え上がらせるかもしれない。

5人のOLが、出会った男を“落とす”ために、その場その場に合わせて“豹変”してみせる姿は、まさにカメレオン顔負け。

このあたりの細やかな心理描写は女性の作者ならではのものだろう。
いくら女性を描くのが上手な作家でも(例えば「細雪」の谷崎潤一郎)、男にはここまで女性の心のひだは描けないだろうと思う。

まあそれはともかく、「女たちのジハード」を読み進むうちに、純真無垢(?)なぼくの心の中にあった女性像が崩れていく、ガラガラという音を何度も聞いたように思う。

身近な女性の書き込みで思い知らされた女性の本音

ぼくが所属する学習サークルのある女性が先日、サークルの掲示板に、バブル時代の自分の姿を顧みた次のような内容のことを書き込みされた。



バブル時代には妻帯者からよく声がかかった。
今ならセクハラ・パワハラ問題だが、当時の女子社員はなかなか「したたか」。

セクハラ・パワハラに耐えつつ、ちょっとそれをも楽しんで、ちゃっかりごちそうやコンサートなどを奢ってもらったりした。

自分では絶対行かないお高いバー、お芝居やジャズコンサート代も一切支払わずありがたい思い出だけが残っている。



この書き込みを見た時にすぐに頭に浮かんだのが「女たちのジハード」だった。

やはり「女たちのジハード」に書かれていることは本当だったんだ・・・。

「女たちのジハード」に登場する5人の女性たちも、相手の男やその場の雰囲気に応じて、カメレオンのように自身の姿を変化させる。

まことにもって「したたか」なのだ。

「女たちのジハード」に登場する5人のOL達の言動を読むと、ぼくのようなええ年をしたおっさんでさえも、「女ってそんなこと考えてるんや・・・」と少し引いてしまう。

これを“本当に純粋無垢”な中学生の男の子が読んだら・・・。
女性不信で彼の将来に暗い影を落とすことになるかもしれない・・・。

そんなつまらないことを考えてしまうほど、ここに登場する女たちの権棒術数を駆使した“良い男”争奪戦の戦術・戦略はすさまじい。

男のぼくとしては、物語としては面白いが、本当に女という生き物は男をこんな風に見、こんな戦略を描いているのだろうかという疑問があった。

「女たちのジハード」を読んで心の中の女性像が崩れ落ちていく一方で、いやいや、「これは物語なんだ」、「現実の女性の心理はこんな悪魔的で複雑怪奇なものではないはずだ」という女性への(自分勝手な)淡い期待・希望を抱いていた。

初めて「女たちのジハード」を読んでから十数年もの間・・・。

が、上に書いたとおり、実際に「したたか」にやっていたという身近に見知った女性の書き込みを見ると、やっぱり「女たちのジハード」に描かれた女性たちの心理描写はホンマのことやったんや・・・、と納得せざるを得なくなってしまった。

※我が学習サークルの女性の名誉のために書き加えておきますが、彼女は“権棒術数”を駆使して男たちを弄しようとしたわけではありません。あくまでも、妻帯者でありながら言い寄ってくるような“バカな男”の誘いを逆手にとって、楽しい思いもさせてもらったというだけですので誤解なきように。

所詮男なんて女の掌の上で踊らされる生き物なのかも…

Round and round
女は廻り続ける
メリーゴーランド

男達は 死ぬまで
悩み続ける運命(さだめ)さ

解るはずがないさ
女なんて

近づいては遠ざかる
くりかえしさ


真夜中のテレフォン・コール/作詞:トシ・スミカワ 作曲:柳ジョージ

ぼくは柳ジョージの「真夜中のテレフォン・コール」を聴いても、

ジョージさん、それはあんた、考えすぎでっせ。
女はもっと純粋で心の美しい生き物なんとちゃいまっか!

と思っていた(思いたかった)。

しかし「女たちのジハード」に書かれた女たちの熾烈な心理戦を読んでなお抱いていた女性への期待も、「真夜中のテレフォンコール」を聞いてなおあった女性への淡いあこがれも、還暦を過ぎたこの年になって、みごとに打ち砕かれて花と散ってしまったのだった・・・。

お釈迦様の掌の上で踊らされる孫悟空ではないが、威張ろうが虚勢を張ろうが、所詮男という生き物は女の掌の上で周章狼狽・右往左往しているだけの生き物なのかもしれない・・・。