紙袋をかかえたままで
この手紙読んでいるだろう
スリーフィンガーが紡ぐマイナーのコード進行の上に、マンドリンのトレモロが哀愁を帯びたメロディを奏でていく。
そんなイントロに続き、伊勢正三~正やんが優しく歌い始めるのが、上の「置手紙」出だしの歌詞だ。
おそらくは同棲生活を送っていたのであろう二人。
女は今夜の料理のための買い物を終え、たくさんの紙袋を抱えて二人が暮らすアパートに帰ってきた。
そこで男が残した置手紙を見つけ、(何か察するところがあったのだろうか)紙袋を置くことも忘れて手紙を読む。
そこには男からの別れの言葉が綴られていた・・・。
最後に見せる彼女への愛と男の優しさ
わざわざぼくが下手な解説をすることもないが、「置手紙」というタイトルと、この最初の数行の歌詞を読んだ(聴いた)だけで、男女のこんな別れの形が鮮やかに目の前に浮かびあがってくる。
歌の続きで男は、
(この「置手紙」は)
どこかそこらの窓からすててくれ
と言い、
(ぼくの)
行く先はぼくの友達に聞いてくれ
と彼女に対し冷たくそっけない言葉を続ける。
しかしこの歌の最後は、
君が帰る頃は夕暮れ時
部屋の明かりはつけたままで
と結ばれる。
愛する彼女が帰る時間はすでにあたりが暗くなる頃。
だから部屋の明かりはつけたままにして出て行くよ・・・。
本当は今でも彼女のことを大切に思っている、そんな男の優しさがさりげなく描かれている。
一篇の物語のような歌詞
甘く切ないメロディラインを持つ正やんの歌は、聴く者の心を無条件に鷲づかみにする。
しかしそのメロディーラインとともに、あるいはそれ以上に、一篇の物語を読む(観る)かのようなその歌詞にも、大きな魅力を感じる人も多いのではないだろうか。
(あなたもその一人なのではありませんか?)
正やんが初めて作詞・作曲した曲は「なごり雪」。
2曲目が「22才の別れ」だ。
いうまでもなく、両曲とも、後に大ヒットとなる曲。
今でも歌い継がれている歌だから、老若男女問わず広く耳にしたことがあるのではないかと思う。
初めて作った曲と2曲目が後世に残る大ヒット曲だというのだから、その天才ぶりには驚かされるばかりだ。
そして両曲ともに、まさに一篇の物語のような歌詞が展開する。
明るい長調のメロディーラインが切ない別れを歌う
汽車の窓に 顔をつけて
君は何か 言おうとしている
君の口びるが
「さようなら」と動くことが
こわくて 下を向いてた
汽車に乗り込んだ彼女との別れのシーン。
いつの間にか大人の女性になったことに気付かず「去年よりずっときれいになった」彼女が汽車に乗り込む。
汽車が出る間際の揺れ動く男の心を、悲しいとか寂しいとかの感情的な言葉で描くのではなく、
君の口びるが
「さようなら」と動くことが
こわくて 下を向いてた
と、客観的な情景として描くことで表現している。
「なごり雪」が舞うホームで「汽車の窓」を挟み、去り行く女と残された男が織りなす別れの風景が目の前に浮かんでくるようだ。
男は最後まで、汽車が動き出し彼女の顔が見えなくなるまで、下を向いたままなのだろうか?
うつむいたままの男に対して、彼女は「こっちを見て!」と窓をたたかないのだろうか?
そんな様々な思いが交錯してしまう、映画のワンシーンを彷彿させる歌詞である。
「置手紙」、「22才の別れ」とは違い、「なごり雪」は長調を主調として書かれている。
明るいメジャーコードの進行に乗せた静かで淡々としたメロディで歌われることも、より一層二人の別れのシーンの悲愁を際立たせているように思う。
蛇足ながら「置手紙」では去っていくのは男だったが、「なごり雪」では女が去っていくという物語になっている。
間接的な比喩表現が直接心に訴えかける
あなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった
幸せに すがりついてしまった
伊勢正三さんの、また「かぐや姫」の、はたまた故・大久保一久さんと結成したユニット「風」の代表曲である「22才の別れ」。
この曲も「なごり雪」と同様に女の方が去っていく物語だ。
そしてこの場合の別れは、女性が別の男の人のもとへ嫁いでいくというストーリーになっている。
「鏡に映ったあなた」と「目の前にあった幸せ」という間接的な比喩表現は、聴く人それぞれに自らの思いを投影させるものになっているのではないだろうか。
「その気持ち、分かる、分かる!」
「あぁ、これってわたしのことだ・・・」と。
22本のローソクを立て
ひとつひとつがみんな君の人生だねって言って
17本目からはいっしょに火をつけたのが
昨日のことのように……
ちょっとできすぎとちゃいまっか!
とツッコミを入れたくなるほどの、彼女の22歳の誕生日を二人で祝うシーンの歌詞だ。
誕生ケーキの上に立てたローソクに、二人して火をつけていくのが、まさに目の前で展開されているようである。
正やんは彼女が「22才」であることを、「22本のローソクを立て」るという表現で表している。
彼の天才はさりげなくここでも発揮されている。
けったいな映画ガイドブログ「まめやか映画館」
ぼくの知り合いで、自称「無類の映画好き」の管理人「まめやか」君が、
「見なきゃもったいない名作を取り上げて、ちょっと元気が出て前向きになれるような雑文をお届けします」
というコンセプトで書いている「まめやか映画館」というブログがある。
「まめやか映画館」
https://mameyakaeiga.com/
比較的最近に立ち上げられたブログだが、その1記事目に取り上げた映画が「緋牡丹博徒」(主演:藤 純子/高倉 健)。
1968年製作、モノクロの任侠ものだ。
さすが「無類の映画好き」と自称するだけのことはあるマニアック(?)な作品である。
(あなたも“けったいなブログ”だと思いませんか?)
「まめやか」君は「緋牡丹博徒」の紹介記事の中で、高倉健さん演じる侠客について、
「静かな淡い哀しみが漂っていて、日曜日の夕方にふと差し込む憂愁を彷彿させる」
と評している。
「『緋牡丹博徒』動画の感想~潔く生きたいけど自信が持てないあなたにおすすめ」
https://mameyakaeiga.com/entry/hibotanbakuto-20220425
映画の中の健さんの佇まいを「静かな淡い哀しみ」と評し、そしてその哀しみのことを「日曜日の夕方にふと差し込む憂愁を彷彿させる」と表現する。
日曜日の夕方。
一週間楽しみにして迎えた休日がもう終わってしまう。
また明日から仕事や学校に追われる日常が始まる・・・。
誰しもが一度は感じたことがあるであろうそんな感情を、「日曜日の夕方にふと差し込む憂愁」という、あまりにも的確・精緻な表現、常人離れした表現で表した一文に、ぼくは腰を抜かしそうになった。
「時代おくれ」の意地
正やんは詞を作るプロだ。
正やんの書いた歌詞を見て感動し、とてもぼくには真似できないと思うのは当然のことだし、またそのことで自分の表現力のなさ、文才のなさを嘆くこともないし、嘆いたところで仕方のないことだと思う。
しかし、「まめやか映画館」はぼくの知り合い、「どこにでもいる、そこいらの人」である「まめやか」君が書いているブログである。
そう、当「時代おくれ日記」と同様、「どこにでもある、そこらへんのブログ」なのである。
なのに、だ。
「日曜日の夕方にふと差し込む憂愁」などという卓絶した文章表現をされた日には、同じ文章を書く者としては堪ったものではない。
堪ったものではない、、が、、、。
ぼくが堪ろうが堪ろまい(?)が、正やんは今日も歌を作り、「まめやか」君は映画紹介の記事を書く。
ならば、ぼくもひたすら精進あるのみ。
「時代おくれ」には「時代おくれ」の意地があるのだ。