黒のスーツにグレーのネクタイを締めた羽生結弦選手は、会見場へ入ってくると深々と頭を下げた。
3~4秒。
司会の女性の、
「それではお掛けください」
という言葉に、もう一頭を下げてから、羽生選手は壇上に設けられた会見席の椅子に腰かけた。
『この場に集まってくださった皆さん、応援していただいた皆さん』に感謝の言葉を述べた後、
「まだまだ未熟な自分ですが、プロのアスリートとしてスケートを続けていくことを決意いたしました」
と静かに、しかし強い決意のこもった声で語った。
この日の会見で述べるべきすべてが詰まった一言だったのだろうか。
この後羽生選手は「はぁ~」とひとつため息をつき、照れ笑いを浮かべながら、
「本当に緊張してます」
と飾らない正直な気持ちを口にした。
最後に、
「これからも闘い抜く姿を応援してください。今日は本当にありがとうございます」
ともう一度感謝の言葉を述べた後、
「自分で考えてきたことだけだと話せないことがいっぱいあるので、質問いっぱいください」
というメッセージで約8分間の会見を終え、質疑応答へと移っていった。
礼儀・礼節を重んじた清々しい会見
ぼく自身は特別アイススケートが好きというわけではない。
と言うか、スポーツ全般がそれほど好きなわけではないので、テレビでスポーツの放送を見ることはまずない。
東京オリンピックもニュースでダイジェストとして見る程度だった。
そんなぼくでも、ソチオリンピックと平昌オリンピックの2大会連続金メダル、世界選手権2回、グランプリファイナル4回の金メダル獲得という羽生選手の成績は、並外れた偉業だということぐらいは分かる。
それほど偉大な成績を残してきた羽生選手だが、決して偉ぶることなく常に謙虚で自分を応援してくれるファンや、会見場に集まってくれた記者の方への感謝の気持ちを忘れない。
「質問いっぱいください」
実に素朴でさわやかな物言いだ。
この後、テレビ・ラジオ局の記者から質問が出されるのだが、そのひとつひとつに羽生選手は、
「ありがとうございます」
と、まず感謝の言葉を述べてから質問に答えていた。
途中、司会の女性が記者の挙手を見逃して記者クラブの人の質問に移ろうとした時も、羽生選手自ら、
「もうひとり(いらっしゃいますよ)・・・」
と、司会の方にまだ手を挙げている記者の方がいると注意を促していた。
「質問いっぱいください」という言葉は社交辞令でもなんでもなく、羽生選手の偽らざる本音なんだなと感じた瞬間だった。
それにしても、ひとりひとりの記者、ひとつひとつの質問に対し、
「ありがとうございます。・・・」
と感謝の気持ちを持ちつつ、真摯に自分の言葉で自分の気持ちを伝えようとする、礼節ある姿で臨んだ会見は実に清々しい印象を残すものだった。
メルケル前首相のコロナ対策への協力を呼び掛ける会見
“清々しい会見”というのとは少し意味合いが違うが、ここ最近(でもないが)でぼくの琴線に強く触れた会見が、ドイツ メルケル前首相が国民に対して行った、コロナ対策への協力を呼び掛けるスピーチだ。
まっすぐにカメラを(その向こうにいるドイツ国民を)見据え、静かに、しかし力強く、自らの言葉で、自らの考えを訴えかけた。
中でも印象的だったのが、
こうした制約(※自由の制限)は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。
~中略~
しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです。
新型コロナウイルス感染症対策に関するメルケル首相のテレビ演説(2020年3月18日)【ドイツ連邦共和国大使館・総領事館】
というフレーズだった。
第2次大戦後、ドイツは東西に分断された。
メルケル前首相は旧東ドイツの出身である。
東ドイツは旧ソヴィエト連邦の占領地区に成立した国。
1990年に東西ドイツが再統一されるまで、メルケル前首相は“自由”が制限された国で過ごしてきたのだ。
そんな彼女にとっては、“自由”がいかに大切なものであるかということが、肌実感として分かっていたはずだ。
東ドイツの国民にとって“自由”な行動とは“苦難の末に”勝ち取った権利であった。
そんな経験をしている私が、あなた方(国民)に対して自由を制限する様々な措置を取ること、またその措置に協力を求めるということはどれほど心苦しいことか・・・。
ここには、まさに命がけで“自由”という権利を勝ち取ってきた者が持つ、言葉の重み、言葉の真実がある。
誰からの借り物でもない自身の言葉、重み・真実を伴った言葉で語りかけられた国民は、メルケルさんがそこまで言うのなら自分たちも答えてやろうじゃないか、と思えたのではないだろうか。
開かれた民主主義のもとでは、政治において下される決定の透明性を確保し、説明を尽くすことが必要です。
私たちの取組について、できるだけ説得力ある形でその根拠を説明し、発信し、理解してもらえるようにするのです。
市民の皆さんが、ご自身の課題と捉えてくだされば、この課題は必ずや克服できると私は固く信じています。
事態は深刻です。皆さんも深刻に捉えていただきたい。
同 上
民主主義国家では政治の過程を透明にしなければならない。
そしてそのために為政者は国民への説明を尽くさなければならない。
スピーチの目的をそう説明し、そして市民の協力があれば必ずコロナは克服できると、未来への力強いヴィジョンを述べると同時に、しかしそれは楽観視できるものではなく、“深刻な事態”であると正直に述べている。
そこには根拠のない楽観論など存在しない。
とにかく国民を“安心させよう”などという思い上がった態度も感じられない。
政治家として責任をもって、真摯に、自分の言葉で国民に語りかけたこのスピーチは、ドイツ国民のみならず、世界中の多くの人々のこころに響くものだったのではないだろうか。
官僚の作文を読むだけの虚しさだけが残る会見
振り返って我が国の政治家のスピーチはどうだろうか?
そう思って(故)安倍前首相の緊急事態宣言を発出した際のスピーチはどんなだったっけ?と思い出そうとしたのだが、、、
・・・・・・
何を言ってたっけ?
それが正直な気持ちである。
わずかに心に残っているのは、コロナに効く薬を〇月を目途に開発するという“根拠のない”楽観論。
中小企業の人への支援策(融資)、国民への給付金、旅行業界などへの支援策といった、リーマンショックの時の対策を上回る“かつてない規模”の経済政策を実施するという、“政府はこれだけやってます!”アピール。
それぐらいのものだ。
何故こんなに影が薄いのだろうか?
思うに、おそらく彼のスピーチは官僚の作文をそれらしく読み上げているだけのものだからだ。
自分の言葉で、自分の思いを語っていないからだ。
人が書いた作文を読んでいるだけでは、真摯な気持ちなど伝わるべくもない。
自分の頭で考えた自分の言葉ではないから、そこにはリーダーとしての責任というものも感じることができない。
そしてスピーチの後の質疑応答は、
「次の予定がありますので・・・」
ということで、一定の時間が来れば打ち切られる。
自分の言葉で、自分の思いを、政治家としての責任をもって語らない。
質疑応答は適当なところで切り上げる。
羽生選手やメルケルさんの会見、スピーチとは比べるべくもない。
※この場を借りまして、安倍前首相のご冥福を心よりお祈り申し上げます。安倍前首相の業績を客観的に見て批判(誹謗・中傷ではありません)することと、死者を悼むという行為はなんら矛盾するものではありません。逆に安倍前首相を悼む気持ちがあるというのであれば、彼のためにもその業績の功罪をしっかりと見つめなおす必要があると考えます。
見て・聞いて嫌な気分にしかならない会見
「つまんないこと聞くねぇ」
「上(上司)から(質問をするよう)言われてるわけ?かわいそうだね」
東京新聞 TOKYO Web
質問した記者に対して麻生太郎財務相が小声でつぶやいた言葉だ。
(※以下、すべて麻生氏の言葉)
「国民の民度のレベルが違う」
同 上
欧米諸国に比べて日本のコロナウイルスによる死者数が少ないことを自慢げに語った言葉。
欧米の国民に喧嘩を売ってると捉えられても仕方ない。
少なくとも、一国の大臣たる地位にあるもののいう言葉であるとは、到底思えない。
「(10万円は)要望される方、手を挙げる方に配る」
同 上
コロナ対策で国民に給付する10万円をめぐって。
「10万円欲しかったら手を挙げろよ!」って、まったく何様のつもりなんだ?
・・・・・・
書いていて気分が悪くなる一方だから(読む側にしても同じことでしょう)、これぐらいにしておきます。
一点だけ付け加えるならば、このような発言(失言?)ばかりを繰り返している人物に対し、何ら処分もせず、内閣の重要なポストに座り続けさせていたのは(故)安倍前首相に他ならない、ということである。
世界の女性リーダーの会見を見習ってほしい
羽生選手の清々しい会見、メルケルさんの思いの丈を訴えたスピーチの後に、なんとも気分がおちこんでしまうような会見の例を取り上げてしまった。
しかし最後はやはり明るく締めくくりたい。
ということで取り上げたいのはニュージーランドの女性首相 アーダーン首相だ。
37才というニュージーランド史上最年少の若さで首相に就任。
首相として初の育児休暇取得に、国連会議への子連れ出席と、なかなかユニークな方である。
コロナ対策の前に素晴らしかったのが、2019年の白人至上主義の男性によるモスク乱射事件(51人死亡)の時の対応だ。
平和な国家ニュージーランドというイメージを根本から揺るがせることになったこの事件に対し、アーダーン首相が発したメッセージは、
「憎しみではなく愛を、厳しさではなく優しさを」
「ニュージーランドは多様性と優しさと共感を大切にします」
というものだった。
事件の翌朝には銃規制法を改正すると宣言し、犠牲になった方への十分な補償についても約束した。
分断ではなく結束を。
そしてその言葉の裏付けとなるフットワークの軽い対応。
これが、もしトランプ氏がニュージーランドの大統領だったなら…と考えると、空恐ろしくなってしまう。
コロナの時はすぐにロックダウンを断行。
代わりに自営業者には1分の手続きで48時間以内に給付金が振り込まれるように、ここでも素早い対応があった。
コロナ対策について語り切れないことは、子どもを寝かしつけた後の普段着姿のまま、Facebookライブで国民ひとりひとりの質問に答える。
一方で毎朝10時に保健局長を伴って自ら記者会見を開いた。
国の最高責任者が毎朝自ら会見を開き、様々な質問に答えてくれる姿を見て、多くの国民はロックダウンへの協力を厭わなかったのではないだろうか。
他にも台湾の蔡 英文総統など、コロナ対応では世界の女性リーダーが大きな役割を果たした例が多いように思う。
先日の参院選の結果、当選者に占める女性の割合が“過去最高”の28%になったと騒いでいる日本の国会に期待することが酷なのかも分からないが、もう少し女性が活躍できる社会というものを、本気で考えた方が良いのではないだろうか。
自分の言葉で真摯に語り掛けることが重要
羽生選手、メルケルさん、アーダーンさんらの会見・スピーチにあって、安倍さんのスピーチにないものは何か。
繰り返しになるが、それは、
「自分の言葉で、自分の思いを、真摯に語りかける」
という姿勢だ。
自分の言葉で語るということは、すなわちその言葉に責任を持つということである。
(羽生選手のスピーチは一旦置いておいて)
事は国民の自由の制限という、近代民主主義国家が最も大切だと考えてきたものに対する制限である。
先人たちが命がけで勝ち取ってきた権利に対する制限を国民にお願いするわけだ。
その時に国民に対して語られる言葉は、当然、語る人の命をかけた言葉でなければ国民に納得してもらえるはずがない。
他人が考えた、官僚が書いた作文を読み上げていたのでは、聞く人のこころに響くわけがないのだ。
ひとりひとりの記者に対し、まず感謝の言葉を伝えてから、真摯に、丁寧に質問に答えていた羽生選手。
闘いのステージは変わっても、彼の目指すものは変わらないようだ。
ぼくは最初に述べたとおり、アイススケートのことはよく分からない。
分からないながらにも、羽生選手はこの若さながら、不世出と言っても過言ではない選手なんだろうと思う。
そしてアイススケートの選手としての功績を讃えるよりもなによりも、彼の会見に臨む姿勢からにじみ出てくる、羽生結弦というひとりの青年の、素晴らしい人間性に拍手を送りたい。
羽生選手の清々しい会見を見て、こちらまで爽やかで心楽しい気分にさせていただいた。
ありがとうございました。
最後にもうひとつ。
先日アップした「『最近の大人』に比べれば『最近の若い者』の方がよほど人間として立派なんじゃないか」ということを書いた記事も、羽生選手の会見を見ていると、あながち的外れなものでもなかったかなと少し気を強くすることができた。
そのことに対しても羽生選手に感謝しなければならない。
「最近の若い者は・・・」というのは、紀元前4,000年の古代エジプト時代から大人が若者の未熟さを嘆く言葉として使われてきたもののようです。しかし「最近の若い者」はそんなに悪く言ったものでもないと思うんです。「最近の大人・年寄り」に比べれば。