「愛」の意味をどのように定義するのか?
LGBTやLGBTQ+といった言葉・概念がすっかり市民権を得た現在では、一昔前と比べて「愛」という言葉の持つ意味は大きく変化していると感じる。
『舟を編む』は、そんな今の時代にこそもう一度考え直してみたい問題を提起してくれる物語だ。
三浦しをんさん著、2012年の本屋大賞受賞作。
石井裕也監督、松田龍平さん主演で映画化もされ、またテレビアニメにもなったらしい。
※ぼくは映画は観たが、アニメは観ていない。
10年前の本屋大賞受賞作ということで、優れたレビューはすでにたくさんあるだろうし、今更そこにぼくが屋上屋を架すような真似をしても仕方ない。
だからこの記事では冒頭に述べた、現在において「愛」の意味をどう定義するかということに重点を置いて、ぼくなりに感じるところを書いてみたいと思う。
“時代おくれな書評”と言わず、どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。
『舟を編む』の意味
物語のあらすじや登場人物などについては、これまでに散々レビューが書かれていると思うのでここでは繰り返さない。
また『舟を編む』というタイトルが何を意味するのかということについても、すでに多くの素晴らしい解説があると思うが、この点についてはぼくも少しだけ書いておきたいと思う。
本屋大賞を受賞するような本はできるだけ読むようにしているのだが、『舟を編む』を読んでみたいと思ったのは本屋大賞受賞作だからということだけではない。
『舟を編む』というタイトルの意味を知ったことが、この本を読もうと思った大きなきっかけなのである。
『舟を編む』は「大渡海」という中型辞書を作る物語なのだが、この辞書に「大渡海」という名前を付けた由来が語られる場面がある。
「辞書は言葉の海を渡る舟だ」
「人は辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、オレたちは漠然とした大海原を前にたたずむほかないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
「その思いをこめて、荒木君とわたしとで名づけました」
『舟を編む』という言葉の意味はここに述べられているとおりである。
ぼく自身、このようなブログで記事を発信していくにあたって、拙い文章ながら「言葉」へのこだわりがある。
『舟を編む』が、その「言葉」そのものをテーマにした小説だということを知って俄然興味が湧き、これは是非読んでみたいと思ったのだ。
ただ、本屋大賞を受賞した作品だから面白くないわけはないとは思うものの、「辞書を作る」という一見地味に感じられる物語・ストーリーの何がそんなに面白いんだろうという疑問もあった。
そしてその疑問は、物語を読み進めるほどに良い意味で大きく裏切られることになった。
「言葉という大海原を渡るにふさわしい舟を編む」ために、それぞれの登場人物がそれぞれの立場で「言葉」と真摯に向き合う姿勢。
各人が熱く語り合う「言葉」の意味。
「大渡海」を作り上げていく中での登場人物たちの成長。
何がそんなに面白いのかどころか、読み終わった後には静かな、しかし大きな感動が波のように押し寄せてくる。
こころが洗われるような清々しい読後感。
ハートウォーミングな素晴らしい小説である。
「西行」をどう定義する?
「西行」という言葉にどのような説明を入れるかということで、マジメ一筋の主人公、その名も馬締(マジメ)と、チャラ男で通っている先輩の西岡が議論する場面がある。
西行はもちろん平安末期から鎌倉時代にかけての歌人・僧のこと。
しかし西行には様々なエピソードがあるため、辞書の中では「西行」という言葉にさまざまな意味合いが付されている。
そのうちのひとつに、西行が諸国を旅したことから「遍歴するひと、流れもの」という定義がある。
他にも色々な説明があるが、どれを「大渡海」に入れて、どれを入れないか、、、。
西岡は言う。
「実際の流れものが、図書館かなんかで、なんとなく辞書を眺めてるところを想像してみろよ。『さいぎょう【西行】』の項目に、『(西行が諸国を遍歴したことから)遍歴する人、流れものの意。』って書いてあるのを発見したらそいつはきっと、心強く感じるはずだ。『西行さんも、俺と同じだったんだな。大昔から、旅をせずにはいられないやつはいたんだ』って」
馬締が応える。
「そんなふうに考えたことはありませんでした」
「西岡さん、俺は、西岡さんが異動になること、本当に残念です。『大渡海』を血の通った辞書にするためにも、西岡さんは辞書編集部に絶対に必要なひとなのに」
辞書は単に言葉の意味を並べただけのものではない。
「この辞書を読んだ人間が勇気づけられるような説明を書くべきだ」
普段ちゃらんぽらんに見える西岡がそう主張する。
この物語のひとつの見せ場だ。
そしてこの「血の通った辞書」という考え方は、次に取り上げる、そしてこの記事のテーマである「愛」という言葉をどう定義するかというところでも繰り返し語られる。
「愛」の意味~慕う対象は異性だけ?
女性雑誌の編集部から辞書編集部に転属になり、戸惑いつつも「大渡海」作りに参加することになる岸部が、馬締の考えた「愛」についての語釈に疑問を投げかける。
「さらに変なのは、恋愛的な意味での『愛』について説明した②の語釈です。②『異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。』となっていますよね」
「なんで異性に限定するんですか。じゃあ、同性愛のひとたちが、ときに性欲を伴いつつ相手を慕い、大切だと思う気持ちは、愛ではないと言うんですか」
馬締が応じる。
「そういえば、西岡さんにも言われたことがあります。『その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうかを想像してみろ』と。自分は同性を愛する人間なのかもしれない、と思った若者が、『大渡海』で『あい【愛】』を引く。そのときに『異性を慕う気持ち』と書いてあったら、どう感じるか。そういう事態を、俺はちゃんと想像できていなかったんですね」
「西行」という言葉と同様に、ここでも「愛」という言葉に対してどのような語釈を付けるのかを考える根底には、
「この辞書を読んだ人間が勇気づけられるような説明を書くべきだ」
という哲学が貫かれることになる。
20年前、30年前だったら、岸部と馬締の間にこのような議論が起きることはなかったかも知れない。
(岸部が「愛」の語釈を「異性を慕う気持ち」とすることに疑問を持たなかったかも知れない。)
しかし言葉を取り巻く現実は常に変化している。
そして言葉もまたその現実を吸収して常に変化する生き物である。
「愛」の対象が異性だけではなく、同性に対して向けられる人がいるということが広く知られ、また市民権を得ようとしているのが、2022年現在の現実世界だ。
ならば「愛」という言葉の持つ意味も変化するのは理の必然である。
ちなみに『舟を編む』が本屋大賞を受賞した2012年当時は、LGBTという言葉が使われ始めたばかりの頃で、広く社会的に知られたものではなかった。
だから馬締の語釈に疑問を持つ岸部も、LGBTという言葉ではなく「同性愛のひとたち」という表現を使っている。
もし『舟を編む』が後10年遅く書かれていたなら、「同性愛のひとたち」ではなく「LGBTのひとたち」という表現に変わっていたのではないだろうか。
とまれ、LGBT、LGBTQ+という概念が広く知られ、市民権を得るようになった現在では、小説が書かれた当時以上に、岸部の指摘は大きな意味を持つものだと言えるだろう。
実際の辞書の表記はどう変わってきているか?
物語の中の「大渡海」と同じ中型辞書で現実に存在する、
- 「広辞苑」 第六版と第七版(最新版)
- 「大辞林」 第三版と第四版(最新版)
の中の「愛」の記述がどうなっているのかを調べてみた。
「広辞苑」 第六版の「愛」の項目には、
「男女間の、相手を慕う情。恋」
とあって、「男女間」に限定した定義となっている。
これが最新版の第七版では、
「(男女間の)相手を慕う情。恋」
と、「男女間の」という言葉がカッコ書きになっている。
やや微妙な感じだが、少なくとも「男女間」だけには限られないということは伝わってくる改訂だ。
これに対し、はっきりと変化(進化?)したのが「大辞林」。
第三版では、
「異性に対して抱く思慕の情。恋」
と、「異性に対して」となっていた。
「広辞苑」の「男女間の」というのと意味合いは同じである。
これが第四版(最新版)では、
「特定の相手に対して抱く思慕の情。恋」
と、「異性に対して」が「特定の相手に対して」と変化し、明らかに「愛」の対象が「異性」だけではないことを意識した改訂になっている。
まさに『舟を編む』という物語の中で岸部が投げかけた疑問が、現実の辞書の変化につながっているかのようだ。
ちなみに大型辞書の範疇に入る「精選版 日本国語大辞典」の「愛」の項目には、
「男女が互いにいとしいと思い合うこと。異性を慕わしく思うこと。恋愛。ラブ。」
という語釈が書かれている。
ここでは「男女が」「異性を」と旧来の定義が用いられている。
これは大型辞書と中型辞書の改訂の頻度の違いであるとも言え、仕方のない部分かなと思う。
最近は辞書のデジタル化も進み、最新の情報が盛り込まれるスピードも速くなっている。
しかし紙の辞書の改訂はそう簡単にはできない作業であるから、「愛」の定義がさらに新しいものになるには、まだ何年かの時間が必要になるだろう。
すべての人が大切にされるまちづくり
朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の中でLGBTという言葉が使われた記事の件数の推移を見てみると、2011年頃から件数が増え始め、2013年から現在までは、毎年ほぼ数を倍に伸ばしてきているそうだ。
日本社会の中で「LGBT」という言葉・概念が広まったのはごく最近のことであると言えるだろう。
そして「LGBT」という言葉・概念に対する社会的な理解が急速に進んだのも、ここ数年のことだと思う。
この「LGBT」に関して、ぼくの住む明石市のホームページには次のようなことが書かれている。
すべての人が大切にされるやさしいまちづくりの中で、どんな性のあり方も尊重される、「ありのままがあたりまえのまち」を目指して取り組みを進めています。
性の多様性について考える上ではさまざまな用語が使われますが、明石市では基本的な用語として、「LGBTQ+」と「SOGIE」の2つの言葉を用いています。
言うまでもなくこうした取り組みは明石市に限らず、全国の自治体で進められている。
「全ての人が生きがいを感じ」、「多様性が尊重される社会」(「全ての人が生きがいを感じられる社会の実現/首相官邸」)を作ることを主要政策として掲げている岸田内閣においてもまた、こうした取り組みが重要視されるであろうことは言を俟たない。
時代に背向する岸田内閣
ところがその岸田内閣では、この度の組閣で杉田水脈衆議院議員が総務政務官に就任した。
杉田氏は2018年、月刊誌に「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもをつくらない、つまり『生産性』がない」と投稿した人物だ。
この投稿は大きな批判を浴び、掲載した月刊誌が廃刊に追い込まれるという事態にまで至った。
2020年には、性暴力被害の相談体制に関する党会合で、「女性はいくらでもうそをつける」と発言。
議員辞職を求める署名運動が広がった。
こうした発言に疑問をぶつける記者の質問に、誠実に答えようとする姿勢はこれまでも一切見られなかった杉田氏だが、この度の8月15日の総務政務官の就任会見でも「過去に多様性を否定したことも、性的マイノリティーを差別したこともない」とのたまう始末だ。
ここには、過去の発言がいかに性的少数者を差別する発言であるか、その発言がいかに彼ら・彼女らを傷つけることになったかということに対する自覚などまったく感じられない。
当然のことながら「反省」の態度などひとかけらもない。
「全ての人が生きがいを感じる」社会、「多様性が尊重される社会」を目指す岸田内閣が、性的マイノリティーを差別する発言を繰り返し、批判に対してもまったく誠実な対応をせず、自覚も反省もしないような人間を総務政務官という内閣の重要ポストに起用するというのはどういうことなのだろうか。
※付け加えるなら、文部科学副大臣に就任することになった簗和生衆院議員は、2021年、性的少数者への理解増進を図る法案を議論する自民党会合で「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上、種の保存をしなければならず、LGBTはそれに背くもの」と発言した人物だ。
『舟を編む』は社会的マイノリティーへの応援歌
今や物語の世界だけではなく、現実に存在する辞書の中で「愛」とは「異性」だけに対して抱く感情ではないと表記される時代を迎えた。
『舟を編む』という物語が発したメッセージは、小説という枠組みにとどまることなく、現実世界の中に結実したのである。
そしてそのメッセージはまた、LGBTという概念の社会的な理解にも一役買ってきたと言えるかも知れない。
『舟を編む』という物語が社会に発したメッセージは、性的マイノリティー、社会的マイノリティーと言われる人たちへの大きな応援歌となったとも言えるだろう。
それはまさに、「この辞書を読んだ人間が勇気づけられるような説明を書くべきだ」という、物語の中に語られる哲学の現実化そのものである。
しかし、いつの時代においても、そのような社会の流れを感じ取ることができず、旧態依然とした保守的な殻に閉じこもっているのが為政者というものなのかも知れない。
しかし、そんなことを嘆いていても仕方がない。
「全ての人が生きがいを感じ」、「多様性が尊重される社会」などという、そんなこと本気でやる気などまったくなかった前々政権あたりから引き継いだ上っ面のきれいごとを並べるのではなく、
性的マイノリティー、いや、すべての社会的マイノリティーが真に当たり前に生きられる社会を、政治の責任として岸田内閣が実現していくのかどうか、ぼくたちはしっかりと監視していかなければならない。
そのような“血の通った社会”を実現するためには、「LGBTは『生産性』がない」などという発言をする人物を内閣に入れている場合ではないだろう。
辞書の改訂には何年もの年月がかかる。
しかし、人事の誤りの訂正は総理の意思ひとつですぐにでも実行可能なはずだ。
岸田総理の本気度が問われている。