プールで泳ぐ犬

「ただいま~」

玄関のドアが開く音に続いて、早朝アルバイトから帰ってきた次男の声が聞こえた。

「あ~、ホンマ、暑いわ~」

朝の4時半から某運送会社の荷物の仕分けのアルバイトに出かけ、帰ってきた現在の時刻は9時過ぎ。
まだ午前中の早い時間といってもいい時間だが、帰宅した次男はタオルで顔の汗をぬぐっている。

今年の梅雨明けは史上最速らしく、ぼくの住む近畿地方も6月中の梅雨明け宣言が出された。
ぼくはもう初老といっていい年まで生きてきたが、記憶にある限り、6月中の梅雨明け宣言というのは初耳だ。

「中学生はええなぁ。ぼくもプールに入りたいわ」

次男の言葉を聞いて初めて、家と道路一つを挟んだ真向いにある中学校のプールで、中学校の生徒たちがあげる歓声に気付いた。

「うらやましいなぁ、午前中からプールに入れて・・・」

プールではしゃぐ生徒たちをしきりにうらやむ次男の声を聞き流しながら、元気な生徒たちの声に、今年も夏が来たんだなぁという実感を強くした。

プールで泳ぐ中学生たちの元気な声

我が家の前には道路を挟んで中学校がある。

ちょうど目の前にはその中学校のプールがあり、その向こう側にはテニスコート、プールに向かって右側には柔剣道場が並んでいる。

教室などの中学校の建物は柔剣道場の奥側だ。

前の道路と言っても、センターラインもないような狭い生活道路である。
テニスコートや柔剣道場で運動をする中学生たちの溌溂とした声が一年中聞こえてくる。

それに加えて毎年この時季になると聞こえて来るのが、プールに入る生徒たちの元気のよい声だ。

「イッチ、二ィ、サン、シ、
 ゴォ、ロック、シッチ、ハチ」

プールに入る前に準備体操をする声である。

最初の「一・二・三・四」の掛け声は一人の生徒が順番で受け持ち、後の「五・六・七・八」は全員が声をそろえる。
一人一人に個性があるように、聞いていると最初の「イッチ、二ィ、サン、シ」の掛け声にも個性が出るものだ。

恥ずかしそうな声、ここぞとばかりに張り切っている声、ちょっと節回しを入れるお調子者の声・・・。
一つとして同じ「イッチ、二ィ、サン、シ」はない。

“元気な声”ではなく“うるさい声”と感じる人たち

準備体操が終わると、次は生徒たちがプールに入って泳ぐバシャバシャという音が聞こえ、先ほどまでの秩序ある準備体操の掛け声は、キャーキャーワーワーとはしゃぐ声に変わる。

この2年ほどはコロナの影響で夏になってもプールに水が張られることはなく、中学生たちの元気な声が聞けずに寂しい思いをしていた。
今年はコロナの方も少し落ち着き、中学校のプールも久しぶりの賑わいだ。

最初にも書いたが、ぼくを始めとする我が家の家族は、彼ら彼女らの元気な声が夏の訪れを告げてくれているようで、とてもうれしく感じている。

しかし、、、

世間には、我が家のように中学生たちの元気な声を聞いて能天気に喜んでいる人間ばかりがいるわけではないようだ。
いや、喜ばない、という程度の生易しいものではない。

声がうるさいと苦情を言い、中には慰謝料を求めて裁判を起こす人もいる。
苦情の矛先は幼稚園の子どもたちということもあるから驚いてしまう。

さわぐのが子どもの仕事~出口治明さんの著書より

ライフネット生命の創業者で、現・立命館アジア太平洋大学学長である出口治明さんの著書に「人生を面白くする本物の教養」(幻冬舎新書)という本がある。

タイトルの通り本物の教養とは何か?それを身につけるためにはどうすればいいのか?といったことについて語った本だが、その中に保育園の子どもたちがうるさくて苦情が出たというエピソードが紹介されている。

内容概略は次のとおりだ。



東京のとある区で、住宅街の中に保育園を作ろうとしたところ、「子どもがうるさくて昼寝ができない」という住民の苦情が相次いだという。

区は防音ガラスを二重にしたり、子どもを外で遊ばせないといった対策をとったということだが、これはとんでもない話だ。

このような住民のエゴに税金を使っていいものか。

区は「子どもの声がうるさければ、自前で防音ガラスをつけてください。それでもうるさいのなら、どうぞ転居してください」と言うべきだ。

子どもは外で伸び伸びと遊ばせるべきである。
さわぐのが子どもの仕事だ。

大人の昼寝と、子どもの健やかな成長とどちらが大事なのか。



ぼくはこの本を読んで、教養について語った部分より何より、このエピソードのことが一番心に残った。
もちろん、ぼくは出口さんのご意見にもろ手を挙げて大賛成である。

とある“高級住宅街”の大人たちの言い分

最近はこの手の話をよく聞くようになった。

近隣に火葬場ができると言えば反対運動が起きる。
遅かれ早かれ、自分も世話にならなければならない施設なのに、だ。

あるいは非行少年の更生施設ができるということに反対した、東京のとある区の高級住宅街の住民たちもいた。

行政との話し合いの場で、高貴そうなご婦人が、

「もし施設の非行少年が外に出て、私たちの暮らしを目にしたとしたら、自分たちの身の上との違いにショックを受けるのではないでしょうか?」

と、非行少年たちのことを親切にもご心配あそばされていた。

その後に沸いたのは、その場に集まった高級住宅街の住民たちが、そのご婦人のご高説に対して賛意を表する拍手の音。

ぼくはその光景をテレビのニュースで見ていて吐き気がした。

ただし、高級住宅街の住民たちの中のお一人は、行政との話し合いが終わった後のテレビ局のインタビューに対し、

「あのような特権意識まる出しの発言があったことを恥ずかしく思う」

と述べられていた。

この高級住宅街に住む方の中にも、“当たり前の考え方”ができる良識ある住民の方もおられる、ということも付け加えておきたい。

ぼくの田舎のお話

ぼくは人口1,000人に満たない離島の漁師町で生まれ育った。
(現在は人口500人以下だと思う)

子どもが小さい頃はおじいちゃん、おばあちゃんへの顔見せも兼ねて、家族でよく帰省していた。

漁師町なので、島のところどころに船を陸に上げるためのスロープがある。
スロープが海に入る部分にはアオサと呼ばれる海藻が生えていて、干潮時にはそれが陸上に現れる。

海藻だからこの上に乗ろうものなら、ツルツルとよく滑るのだ。

ある時、田舎に帰省していたぼくは、小さい次男を連れて島の中を散歩していた。
散歩の途中、海の生き物が好きな次男は、スロープを海の方へと降りていっていた。

ちょうど干潮時でアオサがたっぷりと現れている。
その上に乗ったらすってんころりんだ。

ぼくが注意しようかなと思ったその時、後ろの方から大きな声が響いた。

「おい!あんまり下まで行ったらアカン!滑ってあぶないぞ!!」

声のした方を見ると、ぼくもよく見知っている漁師のおっちゃんだった。

日に焼けて筋骨隆々の漁師のおっちゃんが大きな声を出すと迫力がある。
知らない人が聞くと大声で怒っているように聞こえるだろう。

だが、このおっちゃんは怒っているわけでは、もちろんない。

ぼくはそのおっちゃんのことをよく知っていたが、そのおっちゃんは、たまにしか島に帰省しないぼくの子どものことは何も知らないはずだ。

しかし誰の子どもだとか、知っている子どもか知らない子どもか、などということは関係ない。

子どもが危ないと思ったから大声で注意してくれたのだ。
ここでは島の大人みんなが、島の子どもみんなの親なのだ。

だから子どもたちは安心して飛びまわることができる。
親もまた、子どもが自分たちの目の届かないところで遊んでいたとしても、安心して遊ばせることができる。

もちろん時には危ない遊びをして、大目玉を食らうこともあるだろう。

しかし、子どもが遊びまわる声を聞いて、「うるさくて昼寝がでけへんやないか!」と怒る大人など、ぼくの田舎では見たことも聞いたこともない。

こどもの健やかな成長vs.大人の昼寝

「久しぶりに流れるプールに行きたいなぁ」

次男はいつまで経っても小学校の子どもの様な事を言っている。
末っ子というのは得てしてそういうものなのかも知れない。

それにしても、まだ小さかった子どもたちを連れて、最後に流れるプールに行ったのは何年前のことだろう。

家の前のプールから聞こえてくる、中学生たちがあげる水しぶきの音や楽しそうな声。
そして、それをうらやむ次男の言葉を聞きながら、ぼくも久しぶりにプールに行ってみたくなった。

(締まりがなくなった体を人前でさらすのは気が引けるが・・・)

始まったばかりの今年の夏も、また来年の夏も、その次の夏も、道路を隔てた中学校のプールからは生徒たちの元気な声が聞こえてくることだろう。

少なくともぼくは、そんな彼ら・彼女らの元気な声を聞いて、「昼寝ができない!」などと怒るような大人にはなりたくない。
子どもたちが大声で走り回る姿を、静かに笑って見守っている大人でありたい。

子どもが伸び伸びと健やかに成長する姿と、大人の昼寝。
あなたはどちらが大切だとお考えでしょうか?